ホリブンの歴史・2
こんにちは。堀文です
台風の進路が気になりますね。
予報どおり急カーブするのでしょうか…皆さまどうぞ気をつけてお過ごしくださいね。
さて、このページでは「ホリブンの歴史」と題しまして、
堀文の歴史を月1ペースでお届けしています。
今回は、堀文の会長、堀 敏弘の若かりし頃のお話を、
昭和30年代の写真とともに振り返ります。
ぜひごゆっくりとご覧ください。
現会長でもある 堀 敏弘は、堀文の創業者デンの息子です。
太平洋戦争終結の後、復員し国立別府病院に勤務していました。
やがて、デンの商売が軌道に乗るとともに、忙しくなったデンと
店を手伝うようになります。
「まったく商売などやるつもりはなかった。」と語る 敏弘会長。
しかし、往来面倒見がよく、また母譲りの働き者であった
敏弘の尽力で店は益々大きくなります。
戦後の好景気もあり、亀川の街も買い物客であふれるようになりました。
亀川商店街が今のような形になったのも、この昭和30年頃のことです。
↑亀川にあった映画館「銀映」 当時映画は大衆の娯楽として急激に広まり、
当時はみな背負子(しょいこ)といわれる竹と縄で編んだ背負いかごを
背中に背負って、徒歩で買い物をしていましたので、子どもを連れた人や、
お年寄りには買い出しは大仕事でした。
「堀紙文具店」は、お客様からお電話で注文をいただいて、自転車で配達も
していましたが、別府は山道が多いので、配達も、また大変だったのでした。
なんとかならないかと考えた敏弘は、当時はまだ珍しかったオートバイを
配達に導入!
その結果、配達範囲が格段に広がり、時間の効率も良くなったので、
電話注文の他にも、お店で買った品物を自宅までお届け出来るように
なりました。
別府の町を縦横無尽に走る、敏弘とオートバイは、別府の皆さまに親しまれ、
堀文はますます地元のお店として成長していったのでした。